田辺城は現在の京都府舞鶴市にあったお城で、別名「舞鶴城(ぶかく城)」と呼ばれていました。
現在の舞鶴という地名は、この田辺城の別名から来ていると考えられています。
この記事では、そんな舞鶴の歴史を語る上で欠かせない存在である田辺城跡とその資料館についてご紹介します。
田辺城資料館の概要

田辺城資料館は田辺城跡の敷地内にある資料館です。
まだお城があった当時の様子や、城下町の様子などが展示されています。
資料館自体は小さなスペースになりますますが、当時の貴重な品々が見られます。
田辺城の建立から廃城までの歴史と現在
歴代田辺城城主について
田辺城は、天正10年(1582年)に細川藤孝(幽斎)によって築かれました。本能寺の変の後、田辺城は藤孝の居城となり、丹後地方の政治的中心地となります。
江戸時代に入ると、城は京極家、続いて牧野家の居城として受け継がれ、約290年にわたりこの地の統治に重要な役割を果たしました。
廃城から現在までの田辺城跡について
明治6年(1873年)の廃城令により取り壊され、現在は舞鶴公園として市民の憩いの場となっています。
また、昭和17年には田辺城の隅櫓を模した彰古館が建てられ、現在は細川幽斎の生涯を解説する展示が設けられています。
さらに、平成4年(1992年)には城の外堀跡に城門が再現され、田辺城に関連する歴史的資料や出土品、江戸時代の田辺城下町の様子が紹介されています。
このように、田辺城の遺構は失われたものの、今なお歴史を伝える施設や展示が整備され、地域の歴史と文化を学ぶ貴重な場となっているのです。
田辺城初代城主の細川幽斎(藤孝)の歴史について

細川幽斎(藤孝)は、室町・戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した戦国武将で文化人としても名をはせた文武両道に長けた人物です。
特に「古今和歌集」の奥義を後世に伝える「古今伝授」と、田辺城での籠城戦における逸話は広く知られています。
文化人としての細川幽斎
幽斎は、戦国大名でありながら日本の伝統文化の発展に多大な功績を残した人物です。
特に彼は『古今和歌集』の奥義を伝える「古今伝授」の継承者であり、和歌や連歌を息子の忠興をはじめ、多くの武士の師でもありました。
また、幽斎は茶道にも通じており、千利休らと交流しながら茶の湯を家風として取り入れたことでも知られており、細川家が後世に茶道の名家として栄える基盤を築きました。
こうした文化的活動を通じて、幽斎は戦国武将の中でも異色の「武と文を兼ね備えた名将」として、日本の武家文化に大きな影響を与えた人物です。
戦国武将としての細川幽斎
幽斎は、武芸にも長けており武将としても多くの功績を残しました。
彼は織田信長に仕え、天正8年に信長の名により丹後国(京都府北部)を平定し、宮津城(現在の宮津市)を拠点に地域の納めていました。
そして本能寺の変の際には、盟友であった明智光秀の誘いを断り織田信長への忠義を果たし、後に豊臣秀吉に仕えて丹後の支配を維持します。
さらに、関ヶ原の戦い直前に起こった田辺城の戦いの籠城戦は幽斎の武勇が示された戦いでもありました。
田辺城の戦い|2ヶ月以上におよぶ籠城戦
幽斎は、関ヶ原の戦いの直前に田辺城で石田三成方約1万5000人の敵軍に対し、わずか500人余りの兵で52日間にわたって籠城戦を戦いました。
この長期間にわたる防衛戦は、幽斎の戦略的な才覚と冷静な判断力、そして武将としての勇士を示す有名な歴史です。
また、この籠城戦では幽斎の文化人としての重要性が際立つエピソードもあります。
幽斎の文化人としての顔と影響力
田辺城を囲った敵軍の中には幽斎から歌道を習った武士たちが多数いたといいます。
そして、芸事の師である幽斎を打つことをためらう者が多かったため、田辺城の戦いが長期戦になったという説があります。
さらに、幽斎は古今和歌集の奥義の伝承(古今伝授)ができる唯一の人物でした。当時、古今和歌集の伝承は言伝のみだったため文字に残っていなかったのです。
つまり、古今和歌集の真髄を唯一知っている幽斎が死ぬことで、大切な文化が途絶える可能性がありました。
そのことを憂いた御陽成天皇が幽斎に講和を命じたため、命を失わずに済んだと言われています。
そして、この降伏は関ケ原の戦いの本戦の直前だったこともあり、敵軍15,000の兵は関ケ原の戦いには間に合わなかったため徳川軍の勝利に大きく貢献しました。
いにしえも今もかはらぬ世の中に こころの種を残す言の葉
「変わらない悠久の時の流れの中に、和歌は言葉によって心の種を残していくもの。( そのように私の歌と心も残るならば有難いことだ。)」
上記の和歌を幽斎が籠城戦の最中に詠みました。この歌から幽斎の死の覚悟が伺えます。しかし、この歌が朝廷に届けられたことをきっかけに後陽成天皇と八条宮智仁親王は、古今伝授の唯一の継承者である幽斎を失ってはならないと判断し、東西両軍に講和の勅命を下しました。そして幽斎は討伐の危機から逃れることができたと言われています。
田辺城跡・田辺城資料館の見どころを紹介!
細川藤孝(幽斎)の居城がそびえたっていた田辺城跡には、当時の歴史を語る田辺城資料館がある。その他にも歴史を語る碑石などもある。
復元された城門

現在田辺城跡にある城門は平成4年に再現されたものです。門の中が田辺城資料館となっています。
田辺城資料館
田辺城にまつわる歴史や、江戸時代の城下町の様子が紹介されています。
また、田辺城跡の発掘調査の出土品なども展示されており、火縄銃や江戸時代の刀、牧野家ゆかりの甲冑なども展示さています。
田辺城の隅櫓を模した彰古館

昭和17年に田辺城の隅櫓を模して建てられた彰古館。有本国蔵氏の寄附によって建てられました。
彰古館は文化財陳列館として建てられ、現在は細川藤孝(幽斎)の生涯を語る展示がされています。
幽斎が城主の時に作られた庭園「心種園」

心種園(しんしゅえん)の名前は、細川幽斎(藤孝)が田辺城の戦いの最中に詠んだ歌から名付けられました。
心種園は、池泉と小島を中心とした日本庭園で、池泉と小島は幽斎が城主だった時代のものと推定されています。
また、園内には桜の木が多く植えられており、春には花見の名所としても人気があります。
幽斎が作った日本庭園として有名なのが舞鶴市内にある金剛院の「鶴亀の庭」。金剛院は紅葉の名所としても有名で、紅葉林も幽斎が植えたものと言われています。
朝代神社の竹屋芸屋台

上の写真は祭りで子供が乗る芸屋台です。
江戸時代に屋台の上で子供が歌舞伎をする際に使われていたもので、明確に制作された年は不明ですが、寛保3年(1743年)より前に作られたものと思われます。
当時は朝代神社の祭礼行事の際に竹屋芸屋台やその他の各自治体の芸屋台が集まっていたようです。
現在は田辺城跡のすぐ横にある蔵で普段は保管されています。
車で行く場合は市営南田辺駐車場が利用可能
田辺城跡を車で訪れる場合は、隣の施設の市営南田辺駐車場が利用可能です。
田辺城跡から北に50m程度の場所にあり、駐車料金は1時間100円(2024年現在)。
また、駐車券は「舞鶴市西総合会館・ゆうさい会館」の1階にある受付で1時間無料の処理ができます。
*田辺城資料館では処理できないので要注意。
田辺城跡・資料館の詳細情報
目安所要時間 | 30分〜1時間程度 |
営業時間 | 資料館:9:00-17:00 ※最終入館 16:30 田辺城跡(公園) |
入場料金 | 大人:200円 学生:(小学生~大学生)100円 【団体割引(20名以上)】 大人:100円 学生(小学生~大学生):70円 |
定休日 | 毎週月曜日(月曜日が祝日にあたる場合はその翌々日) 祝日の翌日 年末年始(12/29~1/3) |
住所 | 〒624-0853 京都府舞鶴市字南田辺15-22 |
駐車場 | 市営南田辺駐車場が利用可能 1時間100円(舞鶴市西総合会館・ゆうさい会館で1時間無料処理可能) |
トイレ | 無し |
アクセス | 【車・タクシーの場合】 舞鶴若狭自動車道 舞鶴東ICから約20分 舞鶴若狭自動車道 舞鶴西ICから約10分 【バスの場合】 京都交通バス:「千日前」から徒歩約3分 |
ホームページ | https://www.city.maizuru.kyoto.jp/kyouiku/0000012192.html |
田辺城は別名「舞鶴城(ぶかくじょう)」、舞鶴城の城下町であったことから、現在の舞鶴市の名前の由来になっています。